前回からの続き。
日本人特有の察するの文化で、個性という言葉が歪められている
ちょっと話がズレるかもしれませんが、「日本人特有の察するの文化で、個性という言葉が歪められている」と僕は考えていまして、そうゆうのを、変えたいな、と思っているんですね。
このあたりは、以前の生放送「頭で生きる日本人、心で生きるスリランカ人」でも話しているので、良かったらご視聴ください。
僕も日本人なんで、そうゆう「察するの文化」の侘び寂びみたいな部分は理解できます。もちろん「いいな」という部分もあるんです。
だけども、やっぱスリランカ人の率直さみたいな部分、というか欧米文化の率直さ「自己主張の文化」のほうが、個性を発揮する環境としては優秀だと感じています。
あ、でも、欧米人の率直さとスリランカ人の率直さはちょっと違うんですよ。なんというか温かさがあるんですよね。不思議とね。
日本的「察し」の文化と、欧米的「自己主張」の文化
個性というのは、アイデンティと強く結びついていますよね。このアイデンティという言葉は、うまく日本語に訳しにくいんですが「自分らしさ」みたいな訳になるかなと思います。
では、「自分らしさ」というのは、どうやって生まれてくるのでしょうか? これは、人と意見の交換をしたり、ぶつかり合うことで固まってくるものだと思うんです。
例えば、小さい頃に作った泥団子を思い浮かべてください。泥団子って、グッグッって押し固めてやらないと固まらないですよね。だから、人間もいろんな人とぶつからないと、周りが固くなってこないんです。
日本人は、「察するの文化」の影響で言いたいことを我慢して、言わないで過ごしちゃうので、この「固まる」というチャンスを逃しちゃっている。というふうに、思ったんですよ。スリランカに行ったときに。
日本人は、「あぁ、いいですよ。いいですよ。気にしないでください」とか言って、「こいつぅ~」って思っているわけですよ。性格悪い人も混ざっているんで(笑)
でも、スリランカ人とか、欧米文化圏の人は、「いいよ、いいよ」って言ってくれない。ちゃんと「オマエふざけんなよ」って言ってくるわけですよ。
そうすると「そうだよね。ゴメンネ」って言って、ちゃんとゴメンネって謝れる。しっかりコミュニケーションを取ることができます。でも、その事象については、それで終わり。
「罪を憎んで、人を憎まず」という状態になるんですよ。ちゃんと。
その事象については「オマエふざけんな」と言うけど、「オマエ自体は嫌いじゃない」というコミュニケーションがしっかりできているんですね。それが、日本では無くなっちゃってるんですよ。
「察するの文化」は「それ常識だよね」の文化
これって、日本人の良いところが、悪いところを誘発しちゃっているんです。確かに「察するの文化」は、ホスピタリティという観点からは素晴らしいと思います。しかし、
- 相手の気分を害したら、何か穴埋めをするのが普通。
- 場の雰囲気を壊したくないので、大丈夫と言っていても、大丈夫じゃないのが普通。
これが非常に良くないです。自分の常識が相手の常識と同一だと思っている。もしくはその前提で動いている。でも、同じ日本人とはいえ、育った環境も考え方も違う人間ですから、同じ認識であるはずありません。
要するに、「察する」という文化は、「甘え」と表裏一体なんですよね。
これ、とっても勿体無いです。だから、カレーに関することだけは、言いたいことを言い合って、相手を尊重しながら、個性を発揮する場所が作りたいのです。
それによって、社会で生きていくなかで、個性を発揮するキッカケになるような体験を提供したいと考えています。
カレーとまったく関係ないことなんですが…
カレーハンター協会を通して、富士山登ったり、高尾山に登ったり、いろんな活動をしながら、個性を発揮して、何か殻を破れるキッカケにしていただきたいのです。
まぁ、カレーとまったく関係ないことなんですが、これは、私の人生の夢にスゴイ近いことなので、憲章に入れておきたいと考えました。
ま、要するに、カレーをネタにコミュニケーションを誘発して、人生を変えるキッカケになる経験を提供しよう。ということがやりたいわけです。
ま、小難しい話になってしまいましたが、どうぞよろしくお願いします。
次回は、「其乃五 カレーハンター協会はカレーを通じて人間関係の問題を解決します」です!